路上生活者、釜ヶ崎、あいりん、ヤクザ、すべてが身近だった少年時代

20年前は、出身を聞かれて「西成区で生まれ育った」と言うと、大抵の人は驚いてた。
でも今は、驚く人はほとんどいない。「へーっ」って反応ぐらいで、何も知らない人がとりあえずリアクションを取ってるだけって感じ。
それだけ、今の西成区は昔に比べて平和になったということなんだと思う。

よく取り上げられる「あいりん」「釜ヶ崎」「路上生活者」「ヤクザ」、僕にとっては全部が日常だった。

路上生活者とすれ違うのは当たり前だったし、道端で座り込んでる人たちを避けながら通学するのも普通のことだった。
ヤクザのおっちゃんたちも怖い存在ではなかった。むしろ、子どもやカタギに優しい人が多かった。
「警察は敵で、ヤクザは味方」なんて言葉を笑いながら話す大人もいて、それが冗談とも本気ともつかない感じで、街に漂っていた。

西成区では、ヤクザは“ランク付け”されていた。
刺青を見せながら外をウロついて、一般人に絡んで大声をあげるような連中は、街の中ではチンピラ扱い。
実際、そういう奴らに対して、普通のおっちゃんが「おまえどこの組や、◯◯の親父さんに言うとくからな」なんて一喝してる場面もよく見た。
絡んでるチンピラより、普通のおっちゃんの方が立場が上っていう逆転現象が成立するのが西成だった。

それに、見た目じゃわからない。
「この人は絶対違う」と思ってた人が実はヤクザだった、なんてことも多々あった。
一方で、スーツをビシっと着こなした佇まいに“格”を感じるヤクザもいた。
SPみたいにビシッとしたスーツを着た人たちの真ん中で、比較的ラフな格好をしている人が一番偉い人。
「やっぱりヤクザは怖いのか?」って思われるかもしれないけど、その環境に慣れてた僕には、ヤクザに対して“怖い”という感情はまったくなかった。
むしろ笑顔で話しかけてくれたり、小遣いをくれたり、めちゃくちゃ優しい存在だった。

その周りを囲むスーツを着た人たちは、絶対に子どもに話しかけてこない。
何かルールでもあるのか、目も合わせず、自分の立場を淡々と全うしている感じだった。
この街には、そういう“見えないルール”が確かに存在していた。

でも、そんな風景は今はもうない。

「ヤクザ、どこ行った?」ってくらい姿を見かけない。
噂すら聞かない。昔、可愛がってくれたおっちゃんたちはとっくに高齢で亡くなっていたり、介護を受けていたりする。

たまに銭湯に行けば、今でも“それらしい人”を見かけることはある。
でも、昔みたいに「◯◯組の誰それ」とすぐわかるような空気はもうなくて、どこの組なのかも見当がつかない。
かつてのような“存在感”や“所属の線引き”が、街の中から消えてしまったのを感じる。

かつての釜ヶ崎は、朝になれば甲子園が満員になるほどの労働者のおっちゃんたちで溢れかえっていた。
でもその風景も、もうない。
あのおっちゃんたちも、おそらくほとんどが高齢になって亡くなってしまったんだと思う。

街は確実に変わった。
開発が進み、外からの目を意識した“キレイな西成”が増えている。
インバウンド、リノベーション、再開発…。それはそれで、時代の流れとして当然のことなんだろう。

でも、自分が子どもの頃に感じていた温かさみたいなものは、ずいぶん感じなくなった。

消えてしまった風景、消えてしまった関係性。
それでも、どこかにまだ息づいている“何か”を信じている自分もいる。

西成区で生まれ育っていない人たちからすれば、「日本一危険な町」「ガラが悪い」というレッテルを貼りたくなる気持ちもわかる。
でも、僕にとってこの町は、本当に暖かい町だった。

もちろん、終日酔っ払ってる人や、いきなりケツを触ってくる変な気持ち悪いおっさんもいたし、突然警棒を振り回して追いかけてくるようなヤバい奴もいた。
でも、命に別状はなかった。笑

良くなった、悪くなった、変わったもの、変わらなかったもの。
どちらも記憶の中にあって、両方を見てきたからこそ、語れることがあると思ってる。

この町で育った自分が、何を感じ、何を見てきたのか。
それを言葉にして、残しておきたいと思う。
その周りを囲むスーツを着た人達は絶対に子どもに話しかけてこない。何かルールでもあるのか、目も合わせず、自分の立場を淡々と全うしている感じだった。
この街には、そういう“見えないルール”が確かに存在していた。

でも、そんな風景は今はもうない。

「ヤクザ、どこ行った?」ってくらい姿を見かけない。
噂すら聞かない。昔、可愛がってくれたおっちゃんたちはとっくに高齢で亡くなっていたり、介護を受けていたりする。

たまに銭湯に行けば、今でもたまにそれらしい人を見かけることはある。
でも、昔みたいに「◯◯組の誰それ」とすぐわかるような空気はもうなくて、どこの組なのかも見当がつかない。
かつてのような“存在感”や“所属の線引き”が、街の中から消えてしまったのを感じる。

かつての釜ヶ崎は、朝になれば甲子園が満員になるほどの労働者のおっちゃんたちで溢れかえっていたがその風景もない。
あのおっちゃんたちも、おそらくほとんどが高齢になって亡くなってしまったんだと思う。

街は確実に変わった。
開発が進み、外からの目を意識した“キレイな西成”が増えている。
インバウンド、リノベーション、再開発…。それはそれで時代の流れとして当然のことなんだろうけど、自分が子供の頃に感じてた温かさみたいなものはずいぶん感じなくなった。

でも、同時に消えてしまった風景や関係性もある。

西成区で生まれ育っていない人たちからすれば、「日本一危険な町」「ガラが悪い」というレッテルを貼りたくなる気持ちもわかる。
でも、僕にとってこの町は、本当に暖かい町だった。
もちろん終日酔っ払ってる人や、いきなりケツを触ってくる変な気持ち悪いおっさんも居たし、突然警棒を振り回して追いかけてくるようなヤバい奴もいた。でも、命に別状はなかった。笑

良くなった、悪くなった、変わったもの、変わらなかったもの。どちらも記憶の中にあって、両方を見てきたからこそ、語れることがあると思ってるし、この町で育った自分が、何を感じ、何を見てきたのか。
それを言葉にして残しておきたいと思う。

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